”生産性”しあわせとは何かわたしなりに考えてみた
結論:徳を積もう、自分が思うやり方でしあわせになろう。解散。
前置き
2018年、杉田水脈氏が同性愛者にむかって、「彼ら彼女らは子どもを作らない、つまり『生産性』がない。そこに税金を投入することが果たしていいのか」
と発言した問題を初めて聞いたとき、
ああ、この「生産性」という言葉が現代の人間を不幸にする呪縛だとしっくり来たことを覚えている。
かつての優生保護法をはじめとした優生学的な過去や問題、議論はさておき、
そもそも、
私たちは他人の人生を批判できるだけの素晴らしい人生を送っていると本当に言えるだろうか?
私は堂々とYesとは答えられない。(そもそもそんなに他人に興味がない。)
年収や健康(財産)・容姿や年齢(見た目)・職業、学歴や恋愛(経歴)
このあたりが社会にとって優秀であるのか(役に立つ、価値がある存在か)評価される観点だろうか、
子供の産めない(産まない)人間は価値がない
障害のある人間は不要だ
生かしておく価値のない人間だ
等々そんな考えはおそらく上記のような価値観に照らし合わせて自分より劣っている存在に対して言っているのであろう、
次はお前の番だ
人生はとても不平等で、恵まれていないと感じる人はそもそも同じステージにすら上がれないことも数多くある。
ただ、少なくとも私たちは世界一不幸ではないはずだ。
つまり、しあわせというものは自分の価値観でしかないのだろう。
人は悲しいことに自分の人生経験や価値観でしか物事を見ることができない、
だから、いつまで経っても人種問題もいじめも起きているし、男女が真に理解しあうことは難しいのだろう。
私は仏教的な言葉ではあるが、徳を積むという行為は極めて合理的なシステムだと考えている。(仏教には疎いため正しい解釈であるかは別として)
過去の私自身も再三、生きる意味や生産性について考えて悩み、時に病んでいた。
今、まだまだ社会人としては青二才もいいところではあるが、現在の私は人生なんて”自己満足”であると開き直ることにした。
犯罪や他人を陥れたりしない、自分が正しいと思うことをすることが私にとっての徳を積む行為なのだと、自分をしあわせにすること、他人がどうとかではなくて、自分のものさしで人生を積み重ねていくこと、一度壊れるところまで壊れてようやく気付くことができた。
まだまだつらいことは多いけれど、この世界をもう少し生き抜いてみようと思う。
しあわせになろう。